~音楽が僕等の心にそっと寄り添ってくれる~

 

 

熊澤雅樹(広島交響楽団チェロ奏者 エリザベト音楽大学講師)

 

2011年3月の東日本大震災、あれから3年以上が経過した今も未だ日本全体で傷は癒えず、復興への道のりもまだまだ先は長いと聞きます。今なお続く被災地や被災者の方々の日々の苦労や復興への尽力を思うとあまり安易には語ることのできない心情もありますが、あの時、一人の人間として、あるいは一人の演奏家・音楽に携わる者として、全国各地の音楽家が衝撃的な悲しみと無力感を感じていました。

 

それはもちろん、日本人あるいは日本に住む全ての人達が体感した感覚だとは思いますが、一体、自分に何が出来るのか、この虚無感をどうしたらよいのか、苦悩の日々が続いたのです。

 

そして全国各地で沢山の演奏会がキャンセルになり、混乱を極める中で、音楽には一体何ができるのか・・と全ての演奏家が考えていました。

 

音楽で、あるいは音楽に、一体何が出来るのか。

 

正直、答えはすぐに出てしまいます。抗いようのない天災を前にして、まずは命があってとにかく生きること、そして日々の生活、経済の立て直しを考える時、音楽に出来ることはほとんどないに等しいのかもしれません。

 

しかし、深い悲しみの中にあって、虚無感や絶望の中にあって、それでも確かに音楽によって生きる力が湧いてきたという人達が沢山いたことも事実でした。

 

音楽には直接には何も出来ることはないのかもしれないけれど、ただひとつだけ言えることは~音楽が僕等の心にそっと寄り添ってくれる~ということなんじゃないかと思うのです。

 

 

 

そして、具体的な取り組みとして各地で復興支援のためのチャリティーコンサートや被災地への慰問コンサートなどが行われ、今でも全国の演奏家達が続けています。

 

震災直後にはとても語ることの出来なかったことを今あえて書かせて頂いたのは、少しずつでも前に進むということ、そしていつの日か必ず復興を遂げることへの願い、何より平和な毎日を暮らせるということの大切さを日々、噛み締めながらずっと演奏を続けているからなのです。

 

決して震災を風化させてはならないと強く念じてもいます。

 

 

 

クラシックというジャンルに限らずですが、音楽にはそれ自体が命を持ち、普遍性を伴って燦然と輝く魂を持ったものが多く存在します。

 

それらの本当に良い音楽をより多くの人に伝えていくこと、そして次世代の人達に繋いでいくことは演奏家の使命であると思っています。

 

 

 

私の所属する広島交響楽団は平和への祈りを込めてMusic for Peaceをテーマに活動を続けていますが、これからもより多くの人に音楽の良さを伝えていけるよう日々、精進していきたいと切に願っています。

 

そして、それが続けていけるような平和な国であるようただひたすら祈らずにはいられません。

 

いつ、どんな時でも音楽が僕等の心にそっと寄り添ってくれることを想いながら。

(2014年 4月記)

 

 

 


♪晴れるや?貼れるや?腫れるや?HALLELUJA!♪    

林原玉枝 (実行委員会会員 尾道在住童話作家)


今からほんの49年前、現在のNHK福山の敷地には、「福山市公会堂」という小さな文化ホールが建っていて、そこで福山市におけるヘンデルの「メサイア」が初演された。指揮は、故濱田徳昭、ソリストのバスには、福山市出身の故友竹正則氏が抜擢された。合唱は福山市のグリークラブ、フラウエンコールと、福山暁の星学院の女子高生。管弦楽は?どこだったっけ? 

当時は、まだ、「第九」と聞いても「大工?」といわれる時代で、「メシア」と書けば、「飯屋?」と勘違いされるほどだったので、開演前に、カトリック教会の神父が聴衆の前に立ち、メサイアの解説をした。ハレルヤコーラスが始まったら、聴衆は立ちましょう、とアドバイスされて、開演したが、私の父などは、まるで映画館で映画を見るような段取りで、公演中につまむ「おかき」まで用意していたくらいだから、演奏が始まっても、客席からの小さな雑音が止むことなく、第一部が終わった時、なんと指揮者が、いきなり客席のほうに向き直り、「私どもは真剣に演奏をしていますので、お静かに」という旨のお願いをした。今では、信じられないことだ。はたして二時間余りの演奏が終了したとき、私の父でさえ胸にこみ上げるものがあったほど、聴衆は深く感動したのだった。

さて、尾道市での初演は、1983年。オリジナル楽器によるオーケストラと、全国から集まった70人の合唱、ソリストによって全曲公演が実現した。会場の尾道市公会堂には、充分な控え室がなかったので、出演者は、みんなステージ衣装で、楽器をかかえて、公会堂別館からステージまで、ぞろぞろ道路を横断して移動したのだった。

抜粋の数曲とはいえ、実に30年振りの今回のメサイア演奏である。同じ建物の中に控え室があるので、道路を横断して移動する必要はない。ありがたいことだ。日本は、格段に豊かになっていることは確かなのだ。先日、テレビのCMで、「貼~れるや」といいながら、少女が何かのシールを貼ったりはがしたりしている映像に出くわした。ヘンデルさんも、ジョージ2世もびっくりだが、今やこの音楽が、完全に市民権を得たと喜ぶべきなのだろうか。著作権使用料は払わなくても良いと思うから、そのうち天気予報や、傷薬のコマーシャルに使われても不思議ではない。

ヘンデルが3週間で書き上げたという大曲。53曲のどの曲も素晴らしく、美しく次へ繋がっている。だから、本当は切り離せないのだけれど、まずは最初のページをめくる今回の試みである。いつか全曲の、最後のページを閉じる日を夢に見ている。

 


 

 

 

MOZART考、ディースカウのことなど・・・♪                 

   岡本弥生(フルート講師 広島大学非常勤講師広島交響楽団団員)

 

「死は(厳密に考えて)われわれの一生の真の最終目標なのですから、私は数年この方、人間のこの真の最善の友ととても親しくなって、その姿が私にとってもう何の恐ろしいものでもなくなり、むしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっています! 私は(まだこんなに若いのですが)もしかしたら明日はもうこの世にいないのではないかと、考えずに床につくことは一度もありません。それでいて、私を知っている人はだれ一人として、私が人との交際で、不機嫌だったり憂鬱だったりするなどと、言える人はないでしょう。そしてこの仕合せを私は毎日、私の創造主に感謝し、そしてそれが私の隣人の一人一人にも与えられるようにと心から願っています。」

 これはモーツァルトが31歳のときに、死の床にいると考えられる父に宛てて書いた手紙の一部です。この世のものとは思えない美しい彼の音楽とダジャレや不平不満、手厳しい批評、懇願など人間らしい手紙の内容がどこでどうつながるのか、皆さん、是非「モーツァルトの手紙 上・下」(柴田治三郎編訳 岩波文庫)をお読みください!そこにモーツァルトの真の姿を発見できるかもしれませんよ。

 

 モーツァルトに関する文献も山ほどありますが、私はスイスの神学者カール・バルト(18861968)の著作が好きです。

「モーツァルトの音楽はバッハのそれとは違って使信ではない。また人生告白ではないという点がベートーヴェンと異なっている。何の教えを作曲したわけではなく、まして自己を歌い上げたわけでもない。モーツァルトは何を語ろうとしているのでもない。ひたすら歌い響かせているのだ。彼は聴衆に何も押し付けはしない。決断であるとか、意見の決定等を要求はしない。ひたすら自由を与えるばかりである。彼を聴く喜びは、それを素直に受けとることに始まるだろう。彼はある時、死を名づけて日毎に想う最善の真友と呼んだことがあった。ほんとうにそう呼んだことが、作品にもありありとわかる。しかしそれについて何を仰山に語ったわけでもなく、人をして自ずと推察せしめるだけである。」

  

 モーツァルトを演奏することがなぜこんなに難しいのか、その答えがバルトの言葉に隠されていると思います。結局は自分をさらけだすことになり、その人の真価が問われるのだ、生き方が問われるのだ、人間が問われるのだ、と私は思います。

 

 昨年518日、バリトン歌手フィッシャー・ディースカウさんがお亡くなりになりました。彼の一生は音楽に捧げられました。彼の死が朝日新聞の惜別で伝えられショックを受けましたが、追悼文にとても感銘を受けたので最後に抜粋します。

「どの曲で聴いても「あの人の声」とわかる。そんな歌手は、マリア・カラスとこの人が最後だったのではないだろうか。

 自ら絵を描き、バッハの論文を発表するほどの教養人。研ぎ澄まされた発声で、あらゆる時代や国のオペラ、歌曲をわがものにした。ひとりの作曲家に焦点をあてた演奏会を企画し、全集を次々に出し、そうして感覚だけに頼まぬ知的な聴き方を、一般の人々に提案した。音楽家として社会に根ざそうとする姿勢は、第2次世界大戦中、米軍の捕虜になった2年間に培われた。

 将校に頼まれては歌い、収容所を回ってとらわれの人々の前でピアノを弾く日々。なぜ人は殺し合うのか。戦いのさなかにも、人が愛や友情の歌を求めるのはなぜなのか・・・音楽は単なる楽しみではなく、人生の矛盾を問い、その意味を手探りするための道しるべとなる。

 強靭な知性をもって自らの解釈を疑い、シューベルトの「冬の旅」をはじめ、同じ曲を繰り返し録音した。ボルフなど、歴史に埋もれた作曲家の真価も世に問うた。キャリアを誇らず、常に虚心に音楽に向き合うその姿は、いつしか勤勉な日本の音楽ファンの心の指針となった。

 近しい人の話では、亡くなる前日まで庭の散歩をし。最期は自分のベッドで大きく息を吐き、静かに逝ったという。日常を慈しみながら世に出し続けた膨大は録音の数々は、これからも、芸術の深淵へと手を伸ばすすべての人々にとって北極星であり続ける。」吉田純子

 

 なぜ自分は音楽をやっているのか、どういう人間になりたいのか、どう生きていくのか、道しるべは?自分が音楽と向き合っている時間を至福の時間だと思えるか、言えるか・・・セミナーの3日間、自分の心に問いかけてみてくださいね。


 

 


 

「メサイア」 内田陽一郎 (声楽・合唱講師 エリザベト音楽大学名誉教授)

 

 

 私にとって、「メサイア」は特別な意味を持っています。それは東京藝術大学が毎年定期演奏会で東京と横浜の二箇所で「メサイア」の演奏会を開催していたことに始まります。声楽科生1年から四年まで全学生と藝大学生オーケストラによる公演で、所謂必須科目でもありました。合唱団員として大学の演奏会だけでも8回は舞台に立ちました。また東京女子大学でも「メサイア」を毎年恒例行事として開催していましたので、女子大故に男声がエキストラで加わらざるを得ず、1年次から報酬のもらえるアルバイトとして藝大声楽科男子にとっては〈トンジョの女性〉への憧れも加わって、嬉々として参加したものです。中にはカップル誕生劇もあったようですが、私には全く無縁でした。と言うわけで、合唱団員として大学を卒業するまでに、12回もメサイアの舞台を踏んだことになり、毎年メサイアの楽譜を見る度にその作品の魅力の虜になっていったことは、ごく自然なことでした。藝大に高知大学から国内留学していた、現在、四国学院大学名誉教授の中内幸雄先生との出会いで、彼が赴任した青森県弘前市の東奥義塾高校での「メサイア」のソリストとして招いて頂いたことがきっかけになり、『弘前市民クリスマス』の恒例行事となり、東京藝大指揮科教授でチェンバリストでもあった故金子 登先生の指揮でバロック音楽の演奏の醍醐味を体で感じることが出来たのは、「メサイア」に対する私への決定打となりました。大学を卒業後直ぐに東京音楽大学の助手に採用されてからも、ソリストとして関わり、イタリア留学中の7年間を除いては、幸運にも毎年2~3回クリスマスの時期になると「メサイア」のテノールソリストを歌う機会に恵まれ、急性心筋梗塞で長期入院となった1年間を除いて、再びソリストに復帰でき、一昨年までに合計64回のソリストを歌わせて頂きました。実に、私のテノールとしてのデビューの舞台は「メサイア」だったのです。ソリストを務めない時でも毎年メサイアの合唱指導・指揮をさせて頂き、今回のしまなみ音楽祭でも「メサイア」の合唱指導に当たらせて頂いていますことを感謝し、42曲ものオペラを世に出した(今も40曲が現存する)ヘンデルのオペラ作曲家としての豊富な経験、楽才が余すとこなく発揮された、『劇的性格を持つ特異なオラトリオ』に新たなる感動と新鮮さを感じています。ヘンデルがイタリア留学中に親交を結んだドメニコ・スカルラッティの庇護者であった、ローマのオットヴォーニ枢機卿の夜会で耳の肥えた聴衆たちに拍手喝采を浴び、その成功により一人のザクセンの鬼才がヨーロッパ中で注目され、音楽の母として没後254年が経った今も尚、バロックの巨匠として大いなる恵を世に与え続けているのです。                        (2013年4月記)